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比叡山延暦寺焼き討ちと世界遺産の理由は?アクセスは?

比叡山延暦寺焼き討ちと世界遺産の理由は?アクセスは?

延暦寺(えんりゃくじ)は、滋賀県大津市にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。

平安初期、最澄(さいちょう)により開かれた、天台宗の総本山です。

高野山と並ぶ、日本仏教の代表的な聖地であり、ユネスコ世界文化遺産にも登録されています。

延暦7年(788年)に、最澄が一乗止観院という草庵を建てたものが創始とされ、のちに、京都の鬼門を護る国家鎮護の道場として栄えたとされます。

最澄は延暦23年(804年)、遣唐使船で唐に渡り、霊地、天台山で天台教学を学び、越州では密教と禅を学びます。翌、延暦24年(805年)、帰国した最澄は天台宗を開きます。

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比叡山延暦寺には、東塔、西塔、横川の3つのエリア

東塔(とうどう)は、延暦寺発祥の地であり、総本堂「根本中堂」をはじめ、各宗派の宗祖を祀る「大講堂」、先祖回向の道場「阿弥陀堂」や東塔、文殊楼、大黒堂、万拝堂、法華総持院などの堂宇が集中します。

西塔(さいとう)は、東塔の北にあり、本堂にあたる「釈迦堂(転法輪堂)」を中心に、修行のお堂「にない堂」や最澄の廟所である「浄土院」などがあります。

横川(よかわ)は、西塔の北、本堂の遣唐使船を模した舞台造りの「横川中堂」や、恵心堂、四季講堂(元三大師堂)、根本如法塔などがあります。

現在、堂宇の総数は、3つのエリアで150ほどですが、最盛期には3000を越える寺社で構成されたといわれます。

延暦寺の御朱印が、東塔の根本中堂、大講堂、文殊楼、大黒堂、万拝堂、阿弥陀堂、法華総持院の7種。西塔は釈迦堂(転法輪堂)。横川が横川中堂と四季講堂(元三大師堂)の計10種類。御朱印所をすべて巡ると比叡山をほぼ、網羅します。

比叡山延暦寺は、6大宗派の開祖を生み出しました

比叡山延暦寺は、多くの名僧を生み出し「日本仏教の母山」とも称されました。

融通念仏宗の良忍、浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元、日蓮宗の日蓮などを輩出しています。

比叡山延暦寺が、世界文化遺産として登録された最たる理由は「人材を輩出し、仏教文化を継承したこと」ともされます。

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謎めいた比叡山の信仰と、延暦寺の歴史にまつわる謎

比叡山は「古事記」にもその名がみえ、古代より信仰の山であったとされます。麓の坂本に鎮座する日吉大社には、比叡山の地主神とされる「大山咋神」が祀られます。

その日吉大社は、崇神天皇7年に日枝山(比叡山)の山頂から現在地に移ったとされ、最澄の入山以前の比叡山には、古い信仰の歴史があったようです。

そして、織田信長の比叡山焼き討ちの歴史があります。元亀2年(1571年)、信長は延暦寺の武力が障害になるとして、延暦寺を焼き討ちにして、多くの僧を殺害します。

信長の比叡山焼き討ちの直接の理由は、敵対する浅井、朝倉方を延暦寺が匿ったためとされます。

が、延暦寺が持つ多くの利権を剥奪するためとも、また、当時の延暦寺の腐敗を、信長が嫌ったとも、比叡山の戦略的な位置、地形を警戒したとも、理由に関しては、未だに諸説が述べられます。

比叡山延暦寺にまつわる謎は、尽きないようです。

比叡山延暦寺焼き討ちと世界遺産の理由は?アクセスは?のまとめ

根本中堂には1200年もの間、灯され続けてきた「不滅の法灯」と呼ばれる灯明があります。消さないように、毎日、油を注ぎ足したことで「油断」の語源ともなりました。

最澄は「明らけく後の仏のみ代までも光伝えよ法のともしび」と詠み、天台の教えを、未来永劫、伝えるようにと「法灯」を残しました。宗門の教えを伝えることを「伝灯」と言います。

比叡山へのアクセスに関して、京都からは、八瀬から直接ケーブルカーで比叡山へ上ることもできますが、JR湖西線などを使って、坂本側へ回ったほうが早いようです。京都駅から所要時間、1時間少々で比叡山頂に着きます。

また、京都駅中央口から京都バス、京阪バスの比叡山頂行きのバスが出ており、こちらも所要時間は1時間少々。バスは1、2時間に1本ほどです。

天台宗総本山 比叡山延暦寺
創建 延暦7年(788年)
滋賀県大津市坂本本町4220
077-578-0001(代)
東塔、西塔、横川共通拝観券550円
公式HP:天台宗総本山 比叡山延暦寺 [Hieizan Enryakuji]

アクセス
京都駅(JR湖西線)→比叡山坂本駅(江若バス)→ケーブル坂本駅(ケーブル)→延暦寺駅 徒歩8分
車では(大阪、京都より)
五条バイパス、名神高速道路 京都東IC→西大津バイパス 近江神宮ランプ→山中越え→比叡山ドライブウェイ→延暦寺

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