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橿原神宮のお守りやお宮参り、慰霊碑のまとめ

橿原神宮のお守りやお宮参り、慰霊碑のまとめ

神武天皇を祀る「橿原神宮(かしはらじんぐう)」は、奈良県橿原市の畝傍山南麓に鎮座します。

明治23年(1890年)、国は神武天皇の橿原宮があったとされる畝傍山の麓に、橿原神宮を興し、それまで桜井の多武峰で奉斎されていた神武天皇の神霊を遷します。

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日本最初の宮処、神日本磐余彦尊の畝傍橿原宮の謎

橿原神宮のお守りやお宮参り、慰霊碑のまとめ

日本書紀によると、辛酉の歳、神武天皇元年の正月、神日本磐余彦尊は畝傍山の麓、橿原宮で践祚し、「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」を称したとされます。

日向国の高千穂宮より、東征に出た神日本磐余彦尊(神武天皇)は、多くの試練を克服し、熊野から吉野、宇陀を経て、大和入りを果たします。そして、畝傍山の麓、橿原の地に宮処を置きます。

現在、多くの歴史学者が、神武天皇の実在を認めてはいません。東征説話も史実ではないとします。が、記紀における神武東征が、何らかの史実を投影したとする説までは、否定できていません。

橿原神宮の南に久米町が在ります。古えの大和国高市郡久米邑とされます。神武二年の天皇による論功行賞において、大久米命に与えたとされる地でした。

町の中央に久米御県神社が鎮座します。延喜式に久米御県神社三座とある式内社。久米氏がその祖神を祀ったとします。隣接して久米仙人の説話を残す古刹、久米寺。久米氏の氏神と氏寺が並びます。

神武東征において、常に、神日本磐余彦尊の側(そば)に在って、能く藩屏とされた「大久米命」の存在があります。大久米命配下は皇軍の主力でした。

東征説話の真偽は別として、大和王権の創成期にあって、久米氏が王権の軍事力として貢献したのは、間違いのないこと。

橿原の地に、今も残る久米氏族の痕跡が、神日本磐余彦尊の畝傍橿原宮の伝承を実証します。

畝傍山の麓、広大な神域の歩き方

一の鳥居から一直線にのびる参道を右に折れ、南神門を入ると、畝傍山を背景に、玉砂利の斎庭が広がります。斎庭の奥に霊石、さざれ石。

正面には入母屋の外拝殿が、左右に回廊をのばして壮麗な姿をみせます。殊に、神武天皇奉斎の拝殿に相応しい厳かさ。ここで参拝します。

外拝殿の内は、周囲を回廊に囲まれた外院斎庭。正面に内拝殿、その後方、屋根越しに幣殿の千木が聳えています。京都御所の賢所を移築したという本殿は見えません。

神域の南には、青い水面を広げる久米の深田池。遊歩桟道が廻り、畔には桜木が植わります。傍には、社務所や祈祷殿、宝物館など。

北には森林遊苑から若桜友苑に続き、ここには、予科練十三期の戦没者慰霊碑や航空母艦 瑞鶴之碑が建立されています。

その先は畝傍山の東北麓、神武天皇陵である「畝傍山東北陵」です。

畝傍山の麓、橿原神宮の広大な神域には、清浄な「気」が流れています。

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橿原神宮の祈願、祈祷やお守りの授与

橿原神宮では神楽殿、祈祷殿で、人生の節目の祈願や願いごとの祈祷を行っています。(祈祷料は7千円から)

初宮参りはお子さまの誕生を祝う、生まれて初めてのお宮参り。生後1か月頃の良い日に、ご家族でお参りください。

安産祈願は、妊娠5ヶ月目の戌(いぬ)の日に行うのがよいとされます。橿原神宮では腹帯の準備はございません。ご持参された腹帯をお祓いいたします。

また、家内安全や事業繁栄、交通安全、厄除けなど、祈念をこめたお守りを授与しています。

橿原神宮のお守りやお宮参り、慰霊碑のまとめ

毎年、ゴールデンウィークに、表参道で開催される「橿原神宮 陶器市」が人気です。有名産地から集められた陶器は、一般食器から人間国宝作家の秀作まで。一の鳥居から参道の両脇に並んだ露天に、掘り出しものを求める客が溢れます。

大阪、京都よりのアクセスは「近鉄」が便利。近鉄阿倍野橋駅から「橿原神宮前駅」までは特急で約36分。近鉄京都駅から大和八木駅までは特急で約48分、大和八木駅から「橿原神宮前駅」までは6分です。

「近鉄」といえば、日本一の規模を誇る私鉄。伊勢神宮、橿原神宮という、日本国民の「聖域」ふたつを沿線にしています。殊に日本一。

橿原神宮
祭神 神武天皇、媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)
社格 官幣大社 勅祭社 別表神社
創建 1890年(明治23年)
奈良県橿原市久米町934
0744-22-3271
公式HP:橿原神宮【公式】
アクセス
近鉄橿原線「橿原神宮前駅」徒歩10分
車では
南阪奈道路「葛城IC」20分

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